myfamの実話録

最悪を知るからありふれた幸せを知ることができる

16.憎しみは最強のパワーである

自由

 

なんて響きの良い言葉だろう。

 

しかし自由であることは、また孤独と同義語だ。

 

私はこれからこの孤独と戦っていかなければならなかった。

 

住む家がみつかるまでは、友達の所を転々としたり、車やネットカフェを利用して過ごした。

 

そして幸運なことにも無償で名義を貸してくれるという人物がおり、家を借りられることになった。

 

名義は借りるだけで一切の迷惑はかけないと約束した。

 

晴れて住む場所は確保することができた。

 

家がない‥

 

それはとても不安だった。

 

まるで、世界中に一人、自分だけが取り残されている感覚だった。

 

まだ高校を卒業してまもない‥

 

どうして自分がこんな目に合わなければいけないのか?

 

分からなかった。

 

前世になにか酷いことでもしたのだろうか?

 

それにしても‥酷すぎる。

 

前世に悪いことをした仕打ちなのであれば前世の記憶を受け継がせるべきだ。そうでないと、反省にならないだろう。

 

そうでないと、理不尽だと自分は可哀想であると‥そう思うだけなのだから。

 

 

その後私は奨学金をいくつも借りながら、生活と学費をまかなった。

 

そして、無事に正看護師免許を取得した。

 

無我夢中で走り続けてようやくここまできた。

 

何度も挫折しそうになった。

 

何度ももう辞めてしまいたいと思った。

 

だけど母親への憎しみだけが私の原動力だった。

 

「ここで諦めたら何もかもおしまい、あの女の言う通りになってしまう。私は一人では何もできないと嘲笑われるのがオチだ。頑張らなきゃ、頑張らなきゃ」

 

憎しみだけが私を突き動かした。

 

看護師になりたい?

 

誰かを助けたい?

 

綺麗事だった。

 

私は‥ただ母親を見返してやりたかった‥

 

一心不乱に、目の前にあることをこなすだけだった‥。

15.自由は孤独と同義語である

人間は一人だ。

 

家族や友達、周りの人‥色んな人間が渦巻く環境で結局はたった一人なのだ。

 

生きていく上で、自分しか頼れない。

 

人間というのは、極端に自分に負担になることを恐れる。

 

信頼している人間であっても自分が負荷をかけ過ぎれば、その人は恐らく離れていくだろう。

 

負荷を相手にかけ過ぎるということは、こちらも相手を利用しているのと同義であるからだ。

 

このため、相手が離れても文句は言えないだろう。

 

私は、これから一人で生きていかなければならなかった。誰にも頼れない。

 

だけど社会というのは、そんな弱者には冷たいものなのだ。

 

日本社会というのは資本主義である。

 

権力のある者、力のある者が、そうでない者をまるで虫けらのように扱う。

 

人類は皆平等、人は人の上に人を作らずはとても良い言葉であるが、これは綺麗事だ。

 

それを私はこれから痛感することとなる。

 

まず、家を出るために私は物件探しをした。

 

しかし、どこも門前払いだ。

 

なぜかというと、天涯孤独の身でまだ働いてもおらず学生という身。

 

そんな人間に貸せる物件などないということである。

 

それは、そうである。私は何も築き上げていないのだ、社会への信頼を。

 

しかし、住む場所がないということは家を出ることはできない。

 

私は途方にくれた。

 

しかし私は車を所有していた。いざとなれば、車上生活も可能であった。

 

「もう、やるしかない」

 

私はどんなにイバラの道であるとしても、この母親から離れるためにはやるしかないと、そう決断した。

 

その後家を出る準備をこそこそと開始し、私は荷物の整理を行った。

 

不必要な物は全て売り、必要最小限の物をバックに詰めた。

 

そして、いよいよ家を出る時がやってきた。

 

その時だった。

 

「でていくの?」

 

後ろから声がした。母親だった。

 

「はい」

 

私は母親の顔をみれなかった。

 

「こそこそと、荷物の整理してたの知ってるのよ。でていくの勝手だけど黙ってでていくつもり?」

 

私は口を開くことができなかった。

 

「あんたにかかった養育費、1000万円。返しなさいよ」

 

?!!

 

私は驚きのあまり、目を見開く。

 

もう、だめだ。

 

この人間はどこまで、私を追い詰めるのだろう。

 

私は好きでお前の子供に産まれたんじゃない!

 

「それは産んだそちらの責任であって、私は支払う必要のないことです。さようなら」

 

私は酷く恐ろしい表情になった母親を後ろ目に、玄関の戸を開けた‥。

 

まばゆい光が私を照らしている。

 

言った‥

 

言ってやった。ついに、私は‥自由だ。

 

あの女から解放された‥

 

この日、私は19年間縛り付けられていた監獄を出た。

 

しかし、これから壮絶な人生が待ち受けていることをまだ知らない。

14.母親は人間の皮を被った悪魔だった

ガチャ

 


リビングの重い戸を開けると、母親と晃の姿があった。

 


今夜はお鍋だ。

 


私はおそるおそる、自分の席に着く。

 


「いただきます‥」

 


私が手を合わせてそう言ったその時だった‥

 

 

 

「みて」

 


母親はそう言い、顔の横に左手を持っていき、左手の甲をこちらに向けた。

 


母親の左手の薬指には宝石が光っていた。

 

 

 

「この指輪、今日晃にもらったの。いいでしょう。今日はそれで機嫌がいいから、あんたのこと呼んであげただけ。明日からはまたいつも通りだから。」

 

 

耳を疑うようなセリフが、私の鼓膜を揺らした。

 

 

母親はそう言って、私を嘲笑っていた。

 

 

嗚呼‥私が馬鹿でした。

 


どうしてこんなにも残酷な人間を少しでも信じてしまったのだろう。

 


どうしてこんな残酷な人間が私の親なのだろう。

 

 

指輪をもらって機嫌がいい?

 


だから私を呼んだ?自分の気分で?

 


明日からはまたいつも通り‥?

 

 

 

馬 鹿 に す る の も 大 概 に し ろ

 


ものすごい怒りがこみ上げ私は震えていた。

 

 

悲しみ

 

怒り

 

もうなにがなんだかわからない

 

ただ、私は母親を信じた‥

 


もしかしたら仲直りができるかもしれないなんて‥そんな浅はかな考えを持っていた自分がとても恥ずかしくて奈落の底に突き落とされたような気分だ。

 

 

私は本当に馬鹿だ。

 

 

 

大馬鹿やろうだ。

 


この人間は、そんな人の気持ちをオモチャにして踏みにじるような‥悪魔のような人間。

 


人間の皮を被った悪魔だ。

 


久しぶりに食べた鍋の味は砂の味がした。

 

 

 

私は言葉を交わすことなく、早々に自室に戻った。

 

 

 

 


「でもそれって、お母さんが折れてるのかもしれないよ?自分から謝るのはできないからごはんに呼んで仲直りのきっかけを作ろうとしているんじゃない?」

 

 


友人の言葉が蘇る。

 

 

 

普通なら、そうかもしれない。

 


だけどこの女が普通の感覚を持ち合わせているはずがなかったんだ‥

 


私は声を殺して、泣いた。泣いた。泣いた。

 

 

 

枕に顔を押し付け窒息するくらい‥

 


泣き尽くした。

 


涙は枯れ、そして私は、決意した。

 

 

 

「この家を‥出よう」

 


ーーー

13.母親と家庭内別居

高校生の頃のこと、母親に言われた忘れられない言葉がある。

 

告白され、とても優しいその男の子とお付き合いをすることになった。

 

母親はそのことを知り、表情が変わった。

 

そして一言、こう言った。

 

「あんたの彼氏くらい、私が手のひらで転がしたらイチコロでこっちになびくわ」

 

16歳の時だった。

 

母親はずっと水商売でモテてきた。女としていかに魅力があるのか、それだけをずっとずっと幼い時から言い聞かせられてきた。

 

だから、私は母親には敵わないと、そう思って育ってきた。

 

母親にならきっと取られてしまうだろう。私なんかより、母親の方が女として魅力がある。母親のようになりたい。母親はすごい人間で、魔性の女なんだ。

 

こう、本気で思っていた。

 

そしていかに魔性の女、母親が魅力的なすごい人間なのかを植え付けられ、崇拝させられていた。

 

「ママはすごいね。モテモテで可愛くて綺麗で頭もよくて‥」こう言うと母親は「AB型だし、選ばれた特別な人間なのよ。A型のあんたはむり。」

 

そう言い放つのだ。

 

「A型の女は嫌いよ!」

 

母親の口癖だった。

 

AB型の血液型は賢く頭の回転も速く優れた存在であると謳歌していた。母親はAB型だ。

 

対して、私はA型だ。

 

「A型の女は陰湿で性格悪いやつ多い。A型の女嫌いよ!」

 

私は自分の血液型を呪った。

 

ぐずで、ノロマで、要領も悪くて‥A型で‥こんな私はだめな人間だ、劣っている人間なんだ。

 

あぁ‥神様できることなら血液を取り替えたい。骨髄を変えれば血液型を変えられるならいいのに。そんなことはできないのだと調べて知り絶望した。

 

 

こう言って母親はずっとずっと私を踏み台にして自分をいかに優れている人間かを教え込んできた。洗脳してきた。

 

 

晃の離婚が決まった時なぜかこのことをふと思い出した。

 

私は今まで母親を信じきってきた。

 

母親のすることが全て正しいと。

 

だけど‥それは果たして本当なのだろうか?

 

分からない。

 

この時の私はなにがおかしくて、なにが正しいのかわからなくなっていた。

 

だけど母親のすることに違和感を感じ始めていた。

 

 

ーーー

 

晃の離婚後母親はお店に行くことがかなり少なくなっていた。

 

「店はもう慣れてきただろうしあの子がやればいい」

 

姉は1人でスナックを切り盛りしていた。まだオープンから一年もたっていないのに、だ。

 

母親は、兼ねてからドイツ車に乗りたいと口にしていた。ある日、衝撃の一言が私を貫いた。

 

「ねぇ、車は自分の顔でしょう?前から言ってるけれど。お店をしてると、いい車に乗らないとメンツがたたないじゃない?」

 

嫌な予感がした。

 

「でも、私はローン組めないのよ。カード飛ばしてる関係で。あの子(姉)はこの仕事してるんじゃ高額ローンは組めないし‥。あんた看護学校卒業したら私の欲しいドイツ車のローン組んでね」

 

 

ドイツ車?

 

ローン?

 

私はかなり金銭面にはシビアな性格だ。

 

ローンというのは、軽々しく口にされているが、実質借金と同じである。

 

保証人というわけでなく、私が組むのであればそれは実質私の借金。

 

私は将来設計があった。

 

自分も頑張ってきた分自分の欲しい車に乗りたい、家だって欲しい、貯金もしたい。

 

そんな、自分で自分のものを揃えていく夢があった。

 

そして現在まだ看護学校を卒業してるまでもなく、また精神的、身体的に持たなければ卒業できない可能性もある。

 

不安で仕方ない私を助けてくれているわけでもない。

 

口を開けば「嫌な顔するな」「私の前では笑顔でいろ」「お前の選んだ道、しんどいとか私には関係ない」

 

そう言ってサポートしてくれているわけでもない。

 

 

それなのに、看護師になったら、その名前だけを利用しローンを組ませようとする‥

 

搾取

 

これは搾取だ。

 

都合の良い時に人を利用する。

 

私はそんな母親に言葉を失ってしまった。

 

黙って固まっている私の態度は、母親の逆鱗に触れた。

 

「なに黙ってんの?今まで誰に育ててもらったと思ってる!?ローンくらい組むって即答できないわけ?!信じられないわ!お前は思いやりのカケラもないやつ!!!!!私が養ってやってるのに!!!もういい。お前なんかしらない。家には住ませてやってもいいし家賃もとらないでいてあげるけど、一切今後お前のことはなにもしないからね!」

 

 

母親は、そうまくしたてるように、私に言い放った。

 

「ちょっと‥おちついて‥私も将来設計とかあるし‥そんな急にローンとか言われても‥」

 

そう言いかけるが母親は頑なに「お前みたいな思いやりのない人間しらんわ。価値もない。とにかくこれから部屋だけはいてても許してあげるけど一切のことは関与しないので。」

 

そう言い放たれ、私は「わかりました」そう答えるしか他なかった。

 

 

ーーー

 

 

その後の生活は玄関付近にある私の自室とトイレのみ行き来する生活だった。

 

一切の言葉の交わりはなく、毎日怯えて暮らしていた。

 

ごはんを買う余裕もあまりないため、いつも空腹だった。

 

お昼休憩はみんなお弁当を食べていた。私は奨学金があるとはいえ、コンビニでおにぎりを二日に一回買うのがやっとだ。

 

みんなは、お弁当のおかずを一つずつ分けてくれた。

 

卵焼きがとても美味しくて涙が出た。

 

どうして?みんなお母さんがいる‥お母さん‥お母さん‥お母さん‥

 

私にはお母さんはいない。

 

私にお母さんと呼べる人間がいたことは、産まれてからただの一度もなかったんだ‥。

 

私はやっと、気付いた。

 

いつだって、私にあったのは母親という存在ではなく支配者という存在であったことに。

 

ごはんも食べる余裕はない。だけど学校へ行き勉強して、自室に帰り勉強して‥お腹は減る。

 

そんな時リビングから聞こえるのは、母親と晃の笑い声と美味しそうな料理の匂い。

 

孤独と空腹

 

普段料理なんてしないくせになぜ?私への当て付けなのだろう。

 

こっそり洗濯した部屋干しの匂いが鼻をついた。鼻がツーンとする‥

 

「あれ‥?」

 

気付くと私は泣いていた。

 

ツーンとしたのは、涙のせいだった。

 

また、私が母親に媚びればすむ話だったのだろう。「ママはすごいね、ママのために何だってします」そう言っていれば今日食べるものに困ることはなかったんだ。

 

だけど‥

 

19の冬、私もまた今までの自分とは、変わり始めていた。

 

ただ言いなりでいるだけの人形ではいられなくなっていた‥

 

 

ーーー

 

言葉を交わさなくなって、家賃は発生しないものの自室で滞在することのみ許された家庭内別居が始まって1ヶ月が経過していた。

 

学校、勉強、単位、実習‥

 

食事をろくに取れなくなり、1ヶ月で私の体重は7キロも減少していた。

 

頬はこけていた。

 

そんなある日のことだった。

 

一切これまで、言葉一つ交わさない状態だった母親がスキップをしながら私の自室前にきたのが分かった。

 

「今日、私すごく機嫌がいいの。だから、あんたをごはんに呼んであげるわ」

 

嘲笑うように母親は言い放った。

 

私は、誰が行くものかと心の中で叫んだ。あの母親のことだ。またなにか企んでいるに決まってる。

 

私は今の状態を友人に相談することにした。

 

友人は私の話を聞き、言った。

 

「でもそれって、お母さんが折れてるのかもしれないよ?自分から謝るのはできないからごはんに呼んで仲直りのきっかけを作ろうとしているんじゃない?」

 

たしかに。

 

言われてみればそうだ。

 

私は人を疑う癖がついてしまったようだ。恥ずかしい‥

 

そうだ、きっとそうだ。

 

仲直りのきっかけを作ってくれようとしたんだ!!ママは‥。

 

 

私は言った。

 

「でもこわい‥」

 

友人は、私を諭すように、これでいかなかったら、仲直りのきっかけをくれてるのにいかなかった私が悪くなるのではないかと言う。

 

たしかにそうだ。

 

意地をはってもし私が行かなければ、誰が聞いても私が悪くなるだろう。

 

 

「わかった、頑張っていってくる」

 

私は1ヶ月ぶりに自室から、リビングへと足を進めた。

12.娘はみた。晃という男と母親の不倫、妻との修羅場

 

高校を卒業後私は看護学校に進学した。

 

もちろん、お金は全て自分で貯めたものだ。

 

そして、看護学校の学費も奨学金制度を利用し自分で全てまかなった。

 

看護学校は想像を絶するほどの大変さだった。

 

先生は看護師免許を持つものが教員免許を取り学生達に指導するのだが、私が入学した学校はとても厳しく人間性を否定されるような学校だった。

 

バイトはもちろん禁止、お洒落もだめ、高さのある靴はだめ、外見身なりともに地味な服装。

 

そして、気に入らない生徒があると精神的に痛めつけ、実技テストに合格させなかったりと先生に嫌われると学校を辞めるしかないようなそんな環境であった。

 

また、一週間に2〜3回は進級に響く大切なテストが頻繁に行われ毎日がテスト期間のようなものであった。

 

60点以上でなければ、単位を取れずに留年である。

 

何年も留年を繰り返している人もいた。しかし最高でも6年留年すれば退学だ。

 

絶対に単位を落とすことはできない。

 

徹夜をすることもざらにあった。

 

慣れない環境、精神的にも身体的にもとても苦痛だった。

 

そんな私は家で笑顔でいることができなくなっていた。

 

母親はそんな私をみて、「家で嫌な顔するな!気分悪い!お前が決めたことだ」と言うだけだった。

 

そんなある日のことだった。

 

母親がいきなり、私に話があると言った。

 

話の内容は、姉が離婚を考えており、夜の水商売のお店を開きたいと言い出したというのだ。そして、母親はそれをバックアップする形で一緒に夜のお店を経営するつもりであるということだった。

 

姉には私が中学生の時にできた子とその後産まれた子の二人の子供がいた。

 

上の子はまだ5歳だ。

 

子供達はどうするのかと問うと、姉がお店にでている間は母親の母親(私にとっては祖母)が面倒をみるということだった。

 

「憲くんはそれを知っているの?」

 

私は恐る恐る尋ねる。すると母親の顔がくもり、言いにくそうに言葉を続けた。

 

「店をやるなら憲は別れると言ってる」

 

夜の水商売は、男性のお酒の相手をするお仕事だ。

 

彼女や妻が夜のお仕事をするのを理解できる男性は少ないだろう。

 

私は水商売を嫌っていた。女を売る仕事は母親を女にする。それが、子供にとってとても辛いことを一番よく知っていたからだ。

 

母親は言う。

 

「水商売は私の選んでやってきた道。悪く言うことは許さない!私は誇りに思ってる」

 

水商売をしている人を否定はしない。人にはそれぞれ色んな生き方があるだろう。

 

だが、それを誇りに思うのは少し違うのではないかと感じる。

 

「それに水商売で私はずっと人気ナンバー1だった。自分の店を持つことは夢だった。あの子が店をやるっていっても私がママとしてやるようなもの。夢が叶うなら、憲と別れるわ」

 

母親は憲より自分の夢をとった。

 

数日後、憲は家を出て行った。

 

一緒に暮らし、9年の歳月が経過していた。

 

9年の絆はあっという間に砕け散った。なんとも、もろいものだ、人と人との絆は。そう思った。

 

憲はこの時30代後半になっていた。また、母親は再婚を頑なにしなかったため事実婚状態であった。憲と母親の間に子供はできなかった。

 

理由は母親が子宮内膜症という病気を患い妊娠しにくい体になっていたためである。

 

憲の9年間は一体なんだったのだろう。こんなにあっさりと捨てられた憲に少し同情した。

 

母親は自分の都合の悪いものは簡単に切り捨て、排除する。

 

それがどんなに身近な存在でも。それがたとえ血を分けた自分の子供であっても。それを嫌というほど、思い知らされる出来事がこの後起こることになる。

 

 

ーーー

 

母親と姉はその後夜のお店の開店準備をし、早々にスナックをオープンさせた。

 

お客さんの入りはよく、すぐに地元で有名なスナックになった。

 

忙しい時など、私は洗い場などを手伝わされていた。もちろんお客さんと話すこともある。看護学校の勉強に、テストに、バイトに、そして家の手伝い。

 

私はパンクしそうだった。

 

しかし嫌な顔一つしようものなら、母親に「養ってやってるのになんだその顔は!」と言われてしまう。

 

高校を卒業しているのに、進学を決めた私が母親にとっては穀潰しだったのだろう。

 

テスト前で疲れている時、投げかけられる言葉は卑劣な言葉ばかりだった。

 

周りの子たちはお母さんに励ましてもらっていた。元気をもらっていた。おいしそうなお弁当を持ってきていた。学費を出してもらっていた。

 

私は?

 

考えれば辛くなる。私はやるべきことをやるしかない。そんな一心で私を奴隷のように扱う母親の言葉や行動をずっと耐えていた。

 

夜のお店をはじめてから、母親は変わった。

 

否、また元に戻ったと言う方が正しいだろうか。

 

憲と暮らし始めてから数年たち落ち着き始め、その後別れるまではその前と比較すればだが、少しは女としての子供への攻撃がましであったように思えた。

 

しかし、44歳で女として再デビューを果たした母親は‥また、以前のきつい女に戻っていた。

 

言うことなすこと全てが、きつく、激しくなった。人を利用し騙していく職業だ。

 

母親の攻撃性は厄介者の私に全て向けられた。

 

ーーー

 

その後母親は幾人かの男性と関係を持っていた。

 

お店で出会った男性達だ。しかし母親が本命といえるほど夢中になれる人はいなかった。

 

しかし、最近母親を想いお店に通っている男性がいることを知った。名前は晃(あきら)。

 

年齢は、母親よりも一回りも年下の男性だった。職業は建設業。私と母親のちょうど間くらいの年齢だ。

 

母親には男性を魅了するなにかがある。それは母親のいう魔性の女‥ということなのだろうか。しかしそんな女は女にとっては敵でしかない。また、嫌な存在でしかない。

 

晃は、なんと妻子持ちだったのだ。

 

32歳の妻子持ちの男が水商売の年上の女にハマる。なんて、滑稽な話だろう。

 

子供は3人。まだ上の子は10歳だという。

 

晃は毎日お店にきては遅くまでお店にいた。無口でおとなしいが、お酒が入ると母親にくっつく他のお客さんに殴りかかる暴力的な一面があった。

 

母親はこの男と関係を持った。

 

お店の終わりに家に招くことが何日も続いた。朝帰りなんて、しょっ中だ。妻は何も言わないのだろうか‥?

 

男なんて、こんなものなんだ。所詮大切な妻や子供がいようと、外の女へ走る。そしてそれを相手の女は悪びれもなく、高みから嘲笑っている。

 

お前(妻)の魅力がないから他の女に男(旦那)がなびく‥と。

 

 

女というものが怖くなった。男というものが信じられなくなった。私の中で人間不信は酷くなるばかりだった。

 

そんな状態が続いたある日のことだった。

 

ピンポーン

 

インターホンのチャイムが鳴る。

 

母親と晃はリビングにおり、私は自室にいた。

 

チャイムが再び音を奏でる。

 

「?」

 

時間は夜の10時を指した頃だった。こんな時間に来客なんて訪れることは滅多にない。

 

私が不思議に思っているとなにやら二人が話す声が聞こえる。

 

「出た方がいいんじゃない?」

 

「いや‥」

 

どうやら、母親が晃に玄関のドアを開けるように言っているようだ。

 

ピンポンピンポンピンポンピンポンー!!!

 

 

チャイムが連打され、叫び声がきこえる。

 

「晃!!お願い!!出てきて。もうわかってるんだよ!ここにいることは!!!!!!」

 

‥玄関の先にいる女性‥。それは、晃の妻だった。

 

響く泣き声。

 

無視し続ける晃と母親。

 

私は身震いした。

 

幸せな家庭の壊れる瞬間を垣間見た。

 

そして、私の母親は被害者ではなくまぎれもない、加害者なのだ。

 

ごめんなさい、ごめんなさい。

 

私はとても可哀想なこの晃の妻に心の中でずっと謝った。

 

何時間そうしていたのだろう。

 

数時間してようやく静かになった。

 

晃の妻は諦めて帰ったようだ。

 

そして、その後晃と晃の妻は離婚することになった。最後まで母親から謝罪の言葉はなかった。

 

そしてこの男と母親は、晃の離婚後これまでの躊躇はなくなり、周りがみえていないかのように二人の世界にのめり込んでいった。

 

 

 

11.母親の二面性

 

虐待

 

近年ニュースなどでよく目にするワードだ。

 

なぜ虐待を受けている子供は親の元へ帰ろうとするのだろうか。

 

子供は親が絶対的存在で、恐れを抱いている。

 

また、それとは全く逆の、愛情といった感情もある。

 

母親が自分を傷つけるのは母親ではなく、自分が悪いからなのだ。

 

そしてまた、虐待する親というのは傷つけてばかりではない。

 

むしろ優しい時は女神のように優しく、甘やかせてくれるのだ。

 

だから、子供は混乱する。

 

本当は愛されている、自分が悪いから母親を怒らせる、もっといい子になればもっと愛される。

 

そういった解釈をするようになる。

 

虐待という言葉を聞いて、何日も食事を与えられないネグレクトや、体にアザができるほど暴力を振るわれる身体的虐待がまず目に浮かぶだろう。

 

そういった極端な虐待の場合、傍目からみて発見されやすい。

 

しかし、傍目からみてわかりにくいものは、とても厄介である。

 

これは虐待だとは、自分自身も断言できず、また傍目からみても一切気づかれることがないからだ。

 

そしてそんな親の場合、むしろ人当たりがとても良いのだ。

 

傍目から見れば八方美人という言葉の通り、とても良い母親にみえるのである。

 

こんな風に言われたと周りに話したとしても、「あんないい人が悪意でそんなことを言うはずがないだろう」「あなたの勘違いではないのか、受け取り方が悪いのではないか」「きっとしつけで厳しく言っただけで本当はあなたのことを思っている」と、こんな風に言われてしまうのだ。

 

 

外面がよい母親のしている悪意という名の躾は、私しか知り得ないのだ。

 

自分が全て悪いのだと、そう信じ切ってしまう。これは、とても不幸なことである。

 

 

ーーー

 

私が中学を卒業し高校生になる頃には、母親と憲の関係は随分と落ち着いていた。

 

一緒に暮らし始めて5年以上経過していた。

 

憲はバーテンダーの仕事は早々にやめており、土木関係の仕事のみで、私達を養った。

 

憲はパチンコが趣味で母親もまたパチンコ、パチスロにはまっていった。

 

憲が休みの日は朝から晩まで、憲が仕事の日は仕事が終わってからパチンコ店が閉店するまで、二人は毎日パチンコ店に通っていた。

 

そのため中学生の頃は晩ご飯はほとんど夜の11時をまわってからなにか出来合いものを買ってきてもらい食べるという生活だった。

 

お金をもらって、自分で済ませることもあった。

 

そんな状態だったので、高校生になるともっと自分のことは自分でしろというようになった。

 

むしろ、「義務教育でもないのに高校に行かせてやってる」と日々言われるようになった。

 

私は幼い頃から看護師という将来の夢があった。

 

しかし母親は「高校以上の学校なんていかせないから、行きたいなら自分でなんとかしろ」と言った。

 

私は高校三年間バイトをして、看護学校の入学金を一生懸命貯めた。

 

周りの友達は皆バイトしたお金は化粧品や服、そして遊ぶお金に使っていた。

 

私は三年間遊びにでかけることもなく、黙々とバイトをしてお金を貯め、看護学校は推薦合格を果たした。

 

入学金で100万円ものお金が一瞬にして消えてなくなった。全て汗水たらして時給680円で稼いだお金だった。

 

 

私は高校を無事に卒業した。

 

 

私の人生を狂わせる大きな出来事が起こることになることを、この時の私はまだ知る由もなかった。

 

10.精神的虐待の脅威

母親に愛されていないということを知る言動は多くあったに違いない。

 

これまで、実に酷い言葉を浴びせられてきた。

 

だが、私は母親に一切、殴られたりしたことはないのだ。

 

身体的暴力は受けていない。

 

だからなのか‥時々わからなくなる。

 

これは、虐待ではないのではないだろうかと。私は大袈裟なのではないだろうかと。被害者ぶっていると母親に言われれば、そうなのではないだろうかと。

 

しかし、冷静に考えれば分かるはずだ。これは立派な精神的虐待だったと。

 

言葉というのは、時にナイフとなる。

 

怪我をしても浅い傷は治癒してしまうが、心に受けた暴力は、傍目にはわかることがなく気付かれない。そして癒えにくいという特徴がある。

 

 

「お前が死んでも何日かは考えるがそれ以降は考えないし悲しむこともない。私はその後は私の人生を謳歌する」

「お前は頭がおかしい」
「私が連れてきた人と仲良くできないんだったらお前が出ていけ」

「人の男と仲良く話すな!」
「誰のおかげで生活できると思ってる!家のことくらいお前がやれ!」 

「お前は黙って私のいうことを聞いていたらいい」

「ずっと私の前では、にこにこしてろ!嫌な顔一つするな!」

「うっとうしい顔するな!」

「どうでもいいからどこへでも行けばいい」

「養ってやっている」

「男は利用するものだ!女はそれを手玉にして転がせばいい!」

「私に意見するな!黙って笑ってろ」

「お前はなにをしてもだめな人間。黙っていうことを聞け」

 

 

これらは、全て母親が幼少期から私に浴びせてきた言葉の一部だ。

 

 

私は母親をなるべく怒らさないようにと、いつも腫れ物を扱うかのように接してきた。人の顔色を伺って生きるようになった。自分の気持ちを言えなくなった。

 

母親は、そんな言葉を浴びせることで自分の子供を支配し、コントロールしようとしていた。

 


だが、そんな母親にも優しい時はあった。それは、私が母親の思い通りに動いている時だ。


 

自分の機嫌が良いときは非常に優しいが、機嫌が悪くなると豹変し、鬼のように恐ろしくなる。私は、ずっと天使と悪魔がコロコロと変わるような母親の機嫌に振り回され続けた。

 

 

母親の精神的な支配により、自尊心を育むことができずに、心が不安定のままに身体のみが成長していき‥

 

母親からの支配や脅し、恐怖の植え付け、不必要な存在という無価値感の植え付けにより著しく自尊心は低下した。そして計り知れない信頼感の損失‥

 

 

私は、母親からの重圧により心の成長を止めてしまっていた。

 

従うことでしか、この環境には適応していけない。自分の意思を持ってはいけない。私にとって、母親は絶対的存在であった。

 

私は母親に気に入られるような自分にならなければいけないと必死だった。

 

 

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春、私は中学生となった。

 

 

私が中学生にあがって間もない頃、そんな家庭環境で育ちまともな精神状態を気付けるはずがなく、私の自傷行為は酷くなった。

 


夜に家を飛び出しあてもなく街を彷徨ったり、学校を休みがちになったりもした。

 


そんな私に、母親は「何があっても自分の責任だし好きにすればいい」と放任主義を貫いた。

 


まだ中学生。心は子供だ。

 


ただ、私は心配して欲しかった。だけどそれは叶わない。

 

私が中学二年生になり、姉は中学を卒業した。

 

 

そして、偏差値の低い高校に通った姉の妊娠が、わずか1ヶ月で発覚した。

 

相手は年上の、美容師見習いの男だった。姉は家を出て子供を産み、育てていくことを決めた。母親も何も言わなかった。好きにすればいいと。

 

 

私は、戸惑った。

 

このままでは、姉と同じような未来を生きることになるだろう。

 

母親に気に入られたい、私は母親がいなくては生きていけない、私には母親が全てだ。私は姉のような未来は考えられなかった。

 

 

この頃、私はいわゆる洗脳状態だった。

 

今ならわかるが、この時は私にとって母親に気に入られることが全てだったのだ。

 


非行に走り、相手にされないなら一体どうすればよいのか?

 


その結果非行とは真逆の、成績優秀を狙うことにした。ろくに勉強をしたこともなかったが、シャーペンをとり授業も参加するようになった。

 

今までだめだった成績はすぐに急上昇し、テストの点数も良い点数を取るようになった。

 


すると驚くことに、母親は上機嫌となった。

 

「さすが私の子だ。やっぱり賢い人の子は賢いわね。お前がいい成績だったら片親でも周りになにも言われなくてすむわ!」と鼻で笑っていた。

 

また、「シングルマザーで子供がデキ婚なんて周りに何て思われるかと思っていたけど、お前が勉強ができたら世間に育て方が間違えたとは言われない」と言われた。

 


私は母親の見栄のために良い成績をおさめたのだ。

 

 

その頃の私はそれを愛だと受け止めていた。


だがそれは、違う。

 

これは条件的な愛情であり、無償の愛ではない。

 

 

○○できるあなたが好き


○○だからあなたが好き


こういった好意というのは、あなたという存在が好きなのではなく○○できるあなただから、好きだということである。

 


このため、逆に解釈すると○○できない私は無価値ということになる。

 


○○じゃない私は意味のない存在

 

〇〇できない私は愛されない存在だという無意識下での間違った植え込みをされてしまっているのだ。

 


○○を勉強に例えるなら、こうなる。

 

勉強できる私は価値があり愛される=なにかのスランプなどで勉強ができなくなりテストの点数が以前より悪くなったといったことが起こると途端に自分は愛されない存在で無価値だから死んだ方がいい。

 

こういった極端な考え方をしてしまうことを0か100思考と呼ぶ。

 


それは、境界性パーソナリティー障害の私がまさしくその考えしかできないように、こういった些細なところから、もう私の人格は揺るがされてしまっていたのだ。

 


こうして子供を支配する毒親に制され生きてきたこの環境を精神的虐待といわずなんというだろう‥。