myfamの実話録

最悪を知るからありふれた幸せを知ることができる

9.自己否定感はこうして生まれた

憲が一緒に暮らすようになって、母親が夜に水商売の仕事へ出ている間は憲と二人で過ごす夜が何度かあった。

 

私は母親を怒らせたくないので、なるべく憲と仲良くしないように心がけていたが憲はそんなことを知る由もない。

 

だから、避けようとする私と仲良くするためなのかよく話しかけてくるようになった。

 

冗談めいた行動や発言。

 

しかし、憲のその冗談交じりの行動や発言に違和感を覚えることが多々あった。

 

恥ずかしがって嫌がる私のお風呂を覗こうとすることもよくあった。

 

そしてある日‥一緒にリビングで過ごしていた時のことだった。

 

テレビを見ていた憲が笑いながら、いきなり「白いの飲むか?」と言ってきたのだ。

 

私は小学6年生。

 

女の子は成熟が早い。友だちとの間でそういった行為があることを耳にしたことがあった。

 

まさか、そんなはずない。

 

憲がそんなことをいうなんて、信じられない。私の勘違いかもしれないと思った。だけど、小学校3年生の時に声をかけてきたあの男のことを思い出す。

 

私は震える声で「いらない!」といい、部屋にこもった。

 

 

数日間私は憲の顔をみることも、話すこともできなかった。そんな私に母親はまた怒りをあらわにしていた。

 

気に食わない顔をして何様だ、憲に愛想良くしろとそういうようなことを言われた。私はまた母親に責められることがとても怖かった。

 

だけど、このままでもいられない。

 

そんな時だった。

 

姉が様子のおかしい私に声をかけてきたのだ。

 

私は重い口を開き、数日前に言われたことを姉に話した。

 

姉はそれを聞くなり、「それ、やばくない?ママに言ったほうがいいよ‥」と言った。私は言わないでと言ったが、それを聞くか否か姉はすぐにそのことを母親に言いに行く。

 

すると母親は私のところへ一目散に駆けつけ、一気にまくしたてるように怒鳴り始めた。

 

なにを、わけのわからないことを言っているのか、お前にそんなことを言うはずがない、冷蔵庫にカルピスでも入っていたんだろ!、お前が勝手に勘違いしただけ!気持ち悪い!、そんな風に変な方へ考えるお前が悪い!

 

そう言って私への罵声は止まらなかった。

 

わかっていた。

 

これまで、母親が私を守ってくれたことなんて、ただの一度もなかった。

 

だから、平気。平気なはずなのに。

 

私はごめんなさい、私の勘違いです。ごめんなさい。と、謝り続けた。

 

また私は母親を怒らせてしまった。

 

私の変な妄想、変な勘違い、そんな風に考える私は気持ち悪い人間なんだ。最低な低俗な人間なんだ。

 

私は自分を呪った。恥ずかしかった。この世から消えてしまいたかった。だって、こんな風になったのは全て私が悪い子だから。ママに愛されないのは私が悪い子だから。

 

ーーー

 

この頃母親は水商売を辞めた。今までは生活費は別であったが、憲が生活をさせてくれることになったからだ。

 

この頃から私は変わり始めていた。

 

小学生でありながら夜に一人で外へ出て居場所を求めて彷徨うこともあった。もしかして母親が心配してくれないかと家の付近で玄関のドアをみつめていることもあった。

 

玄関のドアが一度も開いたことはない。

 

 

諦めて私が帰ると母親と憲が楽しそうに笑う声が聞こえるだけだった。

 

 

ーーー

 

自己否定感とはそのままの意味で自己を否定する心だ。

 

お前が悪いと言われ続けたことで自分に対して自信が全く持てなくなり、これは後に影響を及ぼす自尊心の低下に繋がる。

 

自尊心が低いことはとても、人生において損なことである。

 

なにをやっても自分はだめだと自己否定し、やる気もなくなり、諦めも早くなる。

 

そして自分は無価値な存在で誰にも愛されないというベースをしいたまま、成長してしまう。これはとても不幸なことである。

 

親であれば子供を信じてあげること、そして子供に自信を持たせてあげることが必要だ。

 

しかし、この母親の元ではこれは叶わなかった。

 

私はこうして自己否定感、自尊心の低下をベースに置きながら、成長していくこととなった。

8.幼児期のストレスによる精神病

 

幼児期のストレスが脳に影響を及ぼし様々な精神病の発症に深く関わることが多いといわれている。

 

身体的・精神的虐待、性的虐待、ネグレクト(育児放棄)、養育者との分離、および片親の損失などである。

 

私もまた、そうした幼少期を過ごすことにより精神病を発症した患者の一人である。

 

精神病にも様々な病気があるが、私が発症した病気は、境界性パーソナリティ障害複雑性PTSD鬱病といった疾患であった。

 


メンヘラという言葉をご存知だろうか。

 

インターネット上の掲示板「メンタルヘルス」を略したものであり、現在では一種の差別用語のようにも思える使い方だ。

 

メンタルを患い”病んでいる”や、”頭がおかしい”など異常な精神状態の人のことを一括してメンヘラと呼ぶことが多い。

 

しかしメンヘラは、一括してくくることができないように複雑なものであり、全員が全員同じなわけではない。

 

 

近年ファッションメンヘラや、病み可愛いなどという言葉も流行り、精神的には正常な人で、そういったファッションを楽しむ傾向にもあり外部からでは病気なのかそうでないのかは判別がつきにくくなっている。

 

 

病気で治療が必要な人、軽度のコミュニケーション障害、依存や恋愛がうまくいかない人、日常生活にも影響してしまうほどの状態の人、生きづらさを抱えている人…

 

本当に様々な人が存在している。

 

この書物を通しもっと、理解がすすみ差別的な見方をする人が減ればと密かに願っている。

 

 

7.11歳で気付いたことは母親に愛されていないということ

 

松山さんと付き合っている時は、松山さんのことを母親がそんなに好きなわけではなかった。

 

松山さんが母親のタイプではなかったためだ。

 

このため娘と松山さんが仲良くなってもなにも思わなかったのだろう。むしろ、仲良くして松山さんの気を引けばお金がもらえる。

 

私はその利用の一部に過ぎなかったのだろう。

 

だが、憲はどうだ?

 

松山さんとおやすみのキス、松山さんと一緒にお風呂‥

 

憲と一緒の部屋で寝る、寝返りで無意識に距離が近くなりキスしそうになる

 

同じことだろう。

 

なにがいけないのか、私にはわからなかった。

 

だって、松山さんも憲も父親と思おうとしたからだ。必死で。父親という存在がなにかもわからない状態で母親が喜ぶことを成し遂げようとしたまでだったのだ。

 

だが憲の時は母親は女として私に強烈に嫉妬したのだ。

 

まだ11歳の私に。そしてその嫉妬の矛先を全て私に向けたのだ。子供にとってこんなに、辛く恐ろしいことがあるだろうか?

 

憲と母親と同じ食卓でご飯を食べている時、私はあまり仲良くしては母親を怒らせるのだと解釈したため喋らなくなった。

 

ただただ母親の怒り狂った鬼のような表情がとても怖かった。もう怒らせたくない。だから憲と仲良くなりたくなかった。

 

だけど、母親がトイレに席を立った時二人きりになってしまう。こんな時は憲は気軽に話しかけてくる。

 

やめて‥

 

そう思いながらも無視することなんてできない。私は笑って返答した。そしてまた悲劇は起こる。

 

「私のいない時に仲良くして、男に媚びやがって!どういうつもり?!」

 

‥ちがう、ちがうよママ。そんなつもりじゃなかったの。

 

私が泣いて謝っても、母親は私を嫉妬の対象として攻撃し続けた。

 

まだ11歳の私になぜこのような仕打ちができたのだろう?

 

私は‥もう、疲れていた。

 

こんな状況に、こんな家族に、こんな母親に。そして憲が家に来なければよかったと思うようになった。私は母親から必要とされていない、邪魔な人間なんだと思うようになった。

6.母親による娘への嫉妬と攻撃

 

ある夜、母親は水商売の仕事へ行き憲はその日バーテンダーの仕事は休みだった。

 

姉はもう中学生になっており柄の悪い先輩とつるみはじめており、家に帰らない日もしばしばあった。

 

それに対して母親は何も干渉していないようだった。

 

そして憲と二人で過ごす夜、暑い夏の夜であったためリビングはクーラーを入れていた。

 

憲は部屋に行くとエアコンが効いていないため、このままリビングで一緒に寝ればいいと言った。

 

私達は布団もないリビングでタオルケットをかけて一緒に眠った。

 

翌日憲が母親にそのことを言い、私が寝返りをうった際キスしそうな距離になったという状況を笑いながら話したそうで、これに母親は怒り狂った。

 

そして、その怒りの矛先は全て私に向けられた。

 

「人の男に何してんの?」「色目使いやがって!」

 

私はわけがわからなくなった。

 

松山さんの時はおやすみのキスを母親から要求された。一緒にお風呂に入れと言われた。

 

全て指示に従ってきたんだ。

 

そうすれば母親が喜ぶと思った。母親の男と仲良くしなくちゃいけないと思った。全ては母親のためなのに。

 

私はこの頃から母親の人形という立ち位置から嫉妬の対象へと移り変わっていった。

 

全ては私が望んだことじゃなかったのに‥。

 

ーーー

5.母親が惚れた男

 

私が小学低学年の頃、母親は幾人かの男性を家に連れてきては私達子供に会わせた。

 

妻のいる柄の大きい男、ケーキ屋の男、そして次に連れてきたのはブランドショップを経営していた松山さんという男だった。

 

母親は私に自分の連れてきた男にいい顔をするように教えた。

 

従わなければ機嫌が悪くなる。だから、必死で愛想を振りまくようになった。

 

夜ベッドに入る前に母親は、「松山さんにおやすみのキスは?」と、私に言った。

 

母親は笑っていた。

 

松山さんと仲良くなるために一緒にお風呂へも入った。

 

なぜ私が、このようなことをしなくてはいけないのか?少し疑問に思ったが‥母親の指示だ。逆えるはずもない。

 

初めて女性と男性の体は違うと思った。

 

私は松山さんをみることができず、視線をずっと下向けていた。松山さんにお風呂から早く上がって欲しいと心から願った。

 

松山さんはとても優しいいい人ではあったが、母親にとっては物足りない男だったようだ。

 

松山さんはお金を持っているし家を買ってあげるとプロポーズされたようだったが、母親はつまらない男と再婚なんて冗談じゃないと言った。

 

そして松山さんと別れることになった矢先、母親に新たな男ができた。

 

今回の人は母親がかなり惚れた男らしく、今までの人への対応とは大雲の差だった。

 

名前は憲(ケン)

 

憲は、母親が働く水商売のお店で出会った客だった。

 

お客に惚れるなんて、言語道断だが憲という男は危なげな男だった。

 

いかにも母親が好きそうな男だ。

 

はっきりとした目鼻立ちにがっちりとした体に土木関係の仕事で焼けた肌、そして35歳の母親よりも8歳も年下だった。

 

母親のタイプど真ん中の容姿の憲に夢中になるのに時間はかからなかった。

 

憲は土木関係の仕事をしながらバーテンダーの仕事をしていた。母親と会う時間をつくるため憲はすぐに一緒に住み始めることとなる。

 

その頃私は小学5年生になっていた。

 

憲という男、この男を私はあまり良く思っていなかったが、一緒に暮らすことに対して嬉しそうに振る舞った。

 

全ては母親のために。

 

憲と一緒に暮らし始めたある日、母親が突然私に言った。

 

「妊娠したかもしれないわ」

 

私はその瞬間とても嫌な気持ちになった。

 

母親の愛情を赤ん坊に奪われてしまうかもしれない。こんなに母親に尽くしているのは私なのに、愛する人との間に生まれた赤ん坊に、前の男との間にできた子供である私は当然負けてしまうだろう‥と思った。

 

嫌な表情をしてしまった私に母親の表情も一変する。

 

「なに気に入らん顔してんの?うっとうしい!」そう言い放ち怒り心頭してしまう母親。

 

言いようのない気持ちが溢れてくる。

 

憎い気持ち、怖い気持ち、不安な気持ち、見捨てられる感覚。

 

またあの感覚がくる。

 

私は、一人だ。

 

母親は、私を愛していない。母親が、愛しているのはあの男。

 

あの男に母親の愛を取られたと感じた。

 

結局妊娠は母親の勘違いであり、また同じ日々が戻ったが、私の中で芽生えた感情や、母親に対する思いは日に日に幼少期のそれとは違っていた。

4.決死の防衛反応ー9歳ー

 

他人の不幸な生い立ちなんて誰が聞きたいだろう。

 

不幸なおとぎ話にも必ず胸が温かくなるようなエピソードがある。

 

否、不幸だからこそ、みつけだせる‥そんなエピソードがある。

 

私はその見え隠れしている、シークレットエピソードを探し続けている。

 

ーーー

 

小学生低学年の時の事だ。

 

私は姉と母親と近くのデパートへ来ていた。

 

 

私はとても人見知りで人と話すことがすごく苦手な性格だった。

 

見た目も肩まで伸ばした黒のストレートヘアに地味な服装。

 

そして大人しく、俯き加減で歩く。

 

まるで日本人形だと言われるような容姿をしていた。

 

そして、自分の空想世界に浸り知らない間に時間が過ぎていることがしばしばあった。

 

その時も、私は姉と母親から離れふらっと一人店内の品物をぼーっと眺めていた。

 

その時

 

悲劇は起こってしまったのだ。

 

突然、私を覆い尽くす気配を感じたが振り向くことができない。

 

ただ言いようのない恐怖で体がすくむ。

 

何かがおかしい。

 

私の背後には知らない男性がいる。

 

俯き加減の私から背後にいるであろう男の靴とジーパンが見えている。

 

私が自意識過剰なのかもしれない。

 

声を出したくても動けない、声も出ない。

 

声を出して勘違いだったら?

 

戸惑っている私の耳に荒めの息が吹きかかる。


「○○○○舐めて」

 

耳元で囁く声と吐息だった。

 

その瞬間ぶわっっ!!!!!!!!!と冷や汗と鳥肌が立つ。

 

おぞましい言葉

 

まだそのような行為があること自体は知らなかった。

 

だけど、とてもいやらしいことを言われているということは子供ながらにわかった。

 

一瞬振り返った時に男の顔をみた。

 

20代〜30代の痩せ型の男性。目はぎょろっとしていたのを覚えている。

 

 

私はすくむ足を無理やり走らせその場から逃げた。

 

辛くて、怖くて、そしてとても恥ずかしく‥嫌な気持ちになる。

 

母親と姉の姿をみて無言で後ろについて歩く。

 

息がうまくできなかった。

 

私は家に帰るまで一言も言葉を出すことができなかった。

 

母親はそんな私の表情や態度をみて徐々に機嫌を悪くさせていく。

 

そして挙句に無言でいる私に怒りを露わにした。

 

 

言いたくない‥

 

だけど‥ママの誤解を解かなくちゃ。

 

私は重い口を開き、先程起こった出来事をぽつりぽつりと話し始めた。

 

恥ずかしくて堪らなくて顔から火が出そうなほどだった。

 

自分が何か悪いことをしてしまったような、そんな気分だった。

 

母親の顔は怖くて見ることができなかった。

 

俯きながら、全てを話し終えた私の瞳からは大きな大粒が流れ出ていた。ずっと泣くのを我慢していたのだ。

 


もし、我が子が得体の知れない男から性的な目でみられ、いたぶられた時‥通常、親ならどんな反応を示すのだろう。

 

きっと我が子の身を案じ怒りをあらわにし、そして何より我が子のメンタルのケアを最優先するだろう。


少なくとも私はそう、思う。

 


しかし‥

 

私の母親の態度は、私の思いとは裏腹に全く別の答えだった。

 


あろうことに我が子の身を案じるどころか「なぜもっと早く言わないのか」「今更言っても店に文句の一つも言えないしそいつはもういないだろう」「お前が悪い」投げかけられた言葉は私を責める言葉ばかりだった。

 

慰めの言葉は一切ない。

 

 

私は犯人探しがしたいんじゃない。


私はただ守って欲しかった。ただ、心配して抱きしめて欲しかった。

 

ただそれだけだった。


9歳の私のそんな小さな願いすら、この母親には届かない。

 


我が子を守ることが叶わなかったのであれば、もっと我が子を守れなかった不出来な自分を責めるべきなのではないだろうか?

 

少なくとも今の私はそう思う。

 

 

しかし9歳の私はそこまで考える頭はない。だけど、この時胸がとてもざわついた。


それが、なぜだかはその時はわからなかった。

 


だけど‥言いようのない、とてつもない違和感を母親に対して感じていた。

 


今まで信じきっていたものが、今まで私の絶対の存在、絶対の鉄壁だったものが、ガラガラと音を立てて崩れていく‥そんな気がした。

 

ーーー

 

私に異変が起こりはじめたのはこの頃からだった。

 

 

苛々という感情はそれまでは、感じたことがなかった。

 

母親はなんでも言うことの聞く大人しく素直な人形のような私を愛していた。

 


「あんたは黙って私の言うことを聞いていればいい」「私の言うことを聞いていれば全てうまくいく」「人形のように反抗せずただ可愛くいればいい」


支配とコントロール、それが母親と娘である私の関係性の全てだ。


そこには母親曰く愛情がある。


それは、呪縛という名の愛像だ。

 


母親は子供が負の感情を出すことを決して許さなかった。


少しでも嫌な顔をすれば罵倒され、鬼のような形相になり、誰のおかげで生活ができると思っていると責められる。

 


私に許された感情はにこにこ笑うこと。


そうすればママは愛してくれた。


優しくしてくれた。


抱きしめてくれた。

 


私は愛されていたかった。

 

 

 

それなのに‥

 


9歳のある日、突然それは起こった。

 


抑制していたはずの感情が止まらなくなったのである。

 


今まで感じたことのない言いようのない激しい苛つきに吐気がし、どうしようもなく涙と汗で滲んだぐちゃぐちゃな顔を床に押し付け、頭をぐしゃぐしゃにかき乱し「ゔーゔーゔゔ」と呻き声を上げながら声にならない叫び声を上げた。

 


誰か、助けて!こわい!こわい!くるしい!いやだ!!!


そんな声にならない叫び声を上げても誰の耳にも届かない。

 


呻きながら狂ってしまったように、自らの腕や足を引っ掻き続けた。

 


その瞬間。

 


私の中で何かが弾けるかのように、まるで魔法のように‥

 

先程の苛つきや不快感が、さーーーっ!!!!!と波が引くように治っていく。

 


そして‥

 


しーーーん‥と静寂が広がった。

 

 

 

私はまるで壊れた人形のように瞬き一つせず放心状態となる。

 


何分ほどそうしていたであろうか。

 


自分でも覚えていない。

 


だけど、確かに頭を破壊するようなあの酷い苛つきは、自らの爪を立て与える痛みによって跡形もなく消えてなくなったのだ。

 


私の中ではその意味などわからない。

 


それがどういうことなのかも考えることすらしない。

 


ただ不快感が痛覚刺激により消失した。

 


それがその時の私の全てだ。それだけが事実だった。

 


排泄物からの不快感から逃れるために泣く赤子のように、耐えきれない不快感から逃れるために自分自身を傷つけることを学習してしまっただけなのだ。

 


私は開けてしまったのだ。否、開けさせられてしまったのだ。

 


パンドラの箱を‥

 


それが今後私の人生を大きく変えてゆく悪魔の囁きだとは知らずに‥。

3.自画自賛は自己否定の裏返しである

 

幼少期、私は私自身をとても幸せな人生で、とても愛されており、そして恵まれていると思い込んでいた。

 

なぜなら、母親が私にそう言い聞かせていたからだ。

 

母子家庭に育った私は父親の顔さえ知らない

 

ただわかるのは、私の父親が養育費も払わないとても最低な人間で、存在するよりも存在しない方が格段に幸せだということだった。

 

なぜそのように理解したのか?

 

それは母親が幾度となく、私に言い聞かせていたからだ。

 

事あるごとに母親は、「父親なんていない方が幸せだ」「あんたの父親は最低な人間だ」そう言って父親を罵倒した。

 

私の中で父親という存在は、酷く悪のように思えた。

 

同時に周りに男性がいなかった女家系で、男性という存在にも不信感を抱くようになり、嫌悪感を抱くようになった。

 

母親は私が小学生になる頃から水商売の仕事をしていた。

 

私には2歳離れた姉がいた。

 

姉と私は母親がいない夜をまだ小さな体を震わせながら寄り添って過ごした。

 

母親の匂いのついた服を抱きしめて眠った。

 

きついカボティーヌの香水の匂いが私の母親の匂いだった。

 

今でも忘れることができない。

 

ーーー

 

水商売をしていた母親は、私達子供に決して男性を信じるなと言った。

 

そして、母親のように男性は手玉に取るものだとも言った。

 

「私は男性にモテている」「私は女として価値がある」「私は綺麗で魅力がある」「私は知性もあり賢くとても凄い人間である」

 

小学生低学年で、そんな母親の自画自賛を聞かされ続けた。

 

その頃私の中で母親は、崇拝すべき、目指すべき、尊敬すべき‥そんな人間であった。

 

 

女としての価値があること、それこそが全てであり、それこそが必要なことである。

 

私の脳は無意識下でそう覚え込まされ、洗脳されていった。

 

 

そしてそれと共に「私の子供だから賢くて、可愛いのは当然だ」「私の子供であんたは幸せ」「私はそこら辺の普通の母親じゃない。特別な存在だ」

 

そんな風にも言い聞かせられた。

 

私はシングルマザーで水商売の女の、子供。

 

だけど私はとても幸せな人間だ。だってそれはママに愛されているから。だってそれはこんなに凄いママの元に生まれたから。

 

夜が寂しくても私は誰より幸せだ。

 

幸せでなければいけない。

 

そうでなければ母親の子供ではなくなってしまうから。

 

そんな恐怖心をいつも抱え、私は幸せだと本気で思い込んでいた。

 

水商売をしていた母親は、金銭的には余裕があった。

 

好きなものは何だって買ってもらえた。

 

不必要なものだって、何だって手に入った。

 

店頭で並んでいる”モノ”たちはとても魅力的にみえた。

 

少し手を伸ばし魔法のカゴに入れれば何だって自分の物になった。

 

だけど家に帰って袋を開けたらもう魔法は消えていた。

 

店頭では魅力的だった”モノ”は、蓋を開けてみれば、ただの”ガラクタ”だった。

 

家にある”モノ”は、お金で買われた束の間の幸せと、虚しい夜、寂しい夜。

 

ただそれだけだった。

 

「こんなに贅沢な暮らしができているのは誰のおかげ?」

 

ママのおかげです。

 

私がそう言うと、母親は満足したように笑って、私を抱きしめた。

 

大丈夫、私は幸せだ。

 

ーーー

 

人間の認知や、情動は大部分が成長過程で形成されている。

 

考え方、捉え方、人間関係の構築に必要な素材の大半は幼少期の環境、そして他者との関わりがとても深く影響している。

 

そういった中で形成された認知や情動は、『人格』としてその後の人生に大きく影響を及ぼすこととなる。

 

私が感じていた幸せは果たして本当の意味での幸せなのだろうか?

 

それは母親の人間性、そして母親のエゴが招いた産物ではないだろうか?

 

 

そして、母親が幸せだと言い聞かせたその幸せは、母親にとっても本当に幸せ‥だったのだろうか?

 

それは本当は、自身の劣等感からきた自己否定を紛らわせるための思い込み操作だったのではないだろうか?

 

自分で自分を認めてあげなければならないほどの、他人に自分を認めてもらいたいという思い、すなわち”承認欲求”が母親に強くあったのではないか?

 

 

今、私は思う。

 

母親はとても弱く、そして未熟だったと。

 

だが、私は決して忘れはしない。

 

そんな”事”は、私達被害者の子供には、何の関係もない話である。

 

弱き者ほど、虚勢を張る

 

綺麗事を言えば、母親だって辛かった、母親だって弱かった、それを受け止めるのが子供だ。

 

そう言われてしまうのであろう。

 

だが、それは恐らく毒親を持たない、経験のない者の言う言葉だろう。

 

綺麗事は言わない

 

真実だけを事実だけを述べよう

 

自分の気持ちに嘘をついてはいけない

 

だから、私は思う

 

やはりどこまでいっても母親を許すことはできない

 

そしてこの母親を酷く愛し、そして憎んでいる